■ と夢に集った人々
と夢には、様々な国の人が集いました。
それは、ママが語学の達人だったからです。
というのは、真っ赤な嘘です。ママは、十数年間、中国人のバイトの子たちと毎日、接していたにもかかわらず、最期まで、「ニーハオ」「ツァイチェン」のレベルでしたし、欧米系の人に対しては、みな「ハロー」で通していたのです。そんなママだったにも関わらず、外国のお客さんも、とてもママを慕っていたのです。
と夢の常連さんの中には、多少の英語や中国語ができる人は、そこそこ、いましたし、ドイツ語やイタリア語のできる人もいました。でも、外国のお客さんとのコミュニケーションが、「ハロー」「ニーハオ」のママより勝っていたかと言うと、それは?です。
やっぱり、ママは、語学の達人だったのかも知れません。
■ ポール・モネスさん
そんなママを慕っていた外国人の中の一人に、アメリカ人のポール・モネスさんがいます。ポールは、数年前に家族3人で、と夢を訪れて以来、ママのファンになり、昨年12月には、一週間、と夢で料理修業をしていたのです。
以下は、ママの訃報をメールで知らせたときの、ポールからの返信の一部です(原文は、こちら )。
ポールの了解を得て、以下に掲載します。
「京都からの悲しいお知らせ」への返信 2011.8.19 23:46
南さんの訃報に接し、心より、お悔やみ申し上げます。今、私の心は深い悲しみに沈んでいます。けれども、南さんの精神は、これからも、私達皆の中に生き続けて行くに違いありません。
昨年12月に、と夢に、お邪魔した際には、南さんの具合はあまりよくないことは存じていましたが、南さんは、強さと、人間としての品格を兼ね備えておられました。亡くなる最後の最後まで、南さんは、そのときと同様であったと、確信しています。
彼女は、私の先生であり、料理において最も大切なことは、「料理」そのものではなく、その料理を食べる人々に「一体感」を感じてもらうこと、すなわち、いろいろ自分のことに気を遣ってもらっているとか、自分が何か大きなものの中の一員であると感じてもらうことであると、教えてくれました。
「ママ」が料理の皿を、お客さんの前に出す毎に、彼女は、彼女自身の一部を、お客さんに分け与えていたのです。そうであったからこそ、「と夢」は、単なる「レストラン」に止まることなく、「家庭」となったのです。
このメールに添付した写真は、私が初めて京都に訪れて「ママ」や皆さんとお会いしたときに撮ったもので、これからも、この写真を見ては、彼女のことを思い浮かべることでしょう。息子のルークも妻のニコルも私も、それぞれの心の中に、南さんと「と夢」は生き続けています。
皆さんの友人 ポール・モネス
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